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日本人にとっての桜とは?愛される理由や日本での歴史の解説、桜煎茶のご紹介

長い冬の終わりと春の到来を知らせる桜の花。百花繚乱に咲き乱れるその様子は、入学や入社など人生の門出に彩りを添え、多くの人の心に鮮やかな心象を残してきました。
時代を超えて愛されてきたのですが、桜がなぜ愛されるのかその理由について知っている人は少ないのではないでしょうか。
縁結びの街「出雲」のお茶屋・茶三代一(ちゃさんだい)です。
今回は、桜が日本人に愛される理由のほか、日本で桜がいかなる歴史的過程を経て愛されるようになったかについて解説します。
歴史に関する記述は、古墳時代に始まり、明治時代に終わるという読みごたえのある内容となっているため、桜の歴史的変遷について深く知りたい人は、ぜひ参考にしてみてください。

日本人にとって桜とは

日本人にとって桜は特別な花です。他の花と比べて突出した国民的関心を集め、好き嫌いや趣味、風流の域を超えた日本人の民族心意を反映した花と考えられています(注1)。
法的に定めている訳ではありませんが、桜は、パスポートの紋章に使われる菊と同じように、日本の国花とみなされています。

桜が日本人に愛される理由

桜が日本人に愛される理由は、開花を待ち焦がれる感情を喚起させること、死生観の象徴として崇拝されていることの2つがあると言われています。

ここからは、この2つの愛される理由について、詳しく解説します。

開花を待ち焦がれる感情

春一番が吹きこがれる同時期に咲く桜は、長い冬を終え、人々待望の春が訪れることを象徴しているとされ、多くの人に開花を待ち焦がれる感情を想起させてくれます。
開花とともに、開花を待ち焦がれる感情が満たされることは、人々の心が明るくなることと同義です。
このように、人々の心象に与える影響が大きいため、桜は多くの人に愛されています。

死生観の象徴としての崇拝

桜が愛されている2つ目の理由は、桜が人間の死生観の象徴として崇拝されているからです。
古来の人々は、美しく咲き乱れ、はかなく散っていく桜と自らの人生を重ね合わせ、死生観に思いを馳せていました。まさに桜は生命のはかなさと名残惜しさの象徴であり、桜を崇拝の対象としていたのです。
時代や文化によって桜は娯楽の対象としてみられることも少なくありませんが、崇拝の対象に足り得る桜の存在感は、人々の心を魅了する大きな要因と言えるでしょう。

日本での桜の歴史

続いて、日本での桜の歴史について解説します。

日本の桜の起源は、中国の雲南

日本の桜の起源は、中国の雲南とされます。
複数の諸説がありますが、紀元後に長江を流れ下った桜の種子は黒潮に乗って日本に届き、各地の山々に自生しました。
やがて5世紀前半に実在したとされる17代天皇の履中帝が桜をめでたい樹木とし、自分の皇居を稚桜宮と名付けたのです(注2)。
これが、日本の桜文化の始まりと言われています。

日本の桜が文献に初めて記載されたのは日本書紀

日本の文献に初めて登場したのは、5世紀の事柄について記述した歴史書「日本書紀」の履中紀です。この履中紀には、以下のような記述が残っています。
「三年(402)の冬十一月の丙寅の朔辛未(六日)に、天皇、両枝船を磐余市磯池に泛べたまふ。皇妃と各分ち乗りて遊宴びたまふ」
この記述は、履中帝が遊宴に興じている最中、帝の盃に桜の花びらがひらひらと落ちてきた一幕です。情況を説明した記述ですが、宮廷を桜にちなんだ名前に変更したきっかけを表現したと言われています。
履中紀に残る記述によれば、遊宴の後、疑問に感じた帝が、家臣に原因の桜の探索を命じました(注2)。
その後、家臣は、秋にもかかわらず、咲いていた桜を、現在の奈良県御所市にある腋上室山に見つけ、その一枝を帝に奉じました。枝を受け取った帝は大変喜び、宮廷を稚桜宮と改めたとされています。
このように、履中紀が季節外れの桜を喜んでいたことからも、日本人が古くから桜を愛でる心があったことがわかります。

平安貴族が、厄災を払う桜の力を重用する

聖武天皇が、死後に生前の行いを讃えて付ける別名の諡号(しごう)に桜を使ったことから、社会的地位が向上した奈良時代を経て、平安時代は、日本独自の国風文化の高まりに伴い、ますます桜が重用されるようになりました。
例えば、古今集で桜と梅の出現頻度が逆転し、桜が最も詠まれる花となったほか、平安京内裏の正殿である紫宸殿の南側に植栽されていた左近梅と右近橘のうちの梅が、9世紀の中頃に桜が植え替えられたとされます(注3)。
同じ頃から、宮中をはじめとした貴族社会では、邸宅の庭園や野生の桜の花見が盛んに行われるようになりました。貴族社会に初めて花見を定着させたとされるのが、第52代嵯峨天皇です(注2)。嵯峨天皇が弘仁三(812)年に平安京の宴遊地•神泉苑で開いた花宴は、今日まで続く首相主催の園遊会の始まりとされます。

戦国時代に花見は季節の行楽行事に変化

鎌倉時代に花見は宮廷行事から地方の下級武士に広がっていたとはいえ、僧侶歌人の西行が桜を憧憬の対象として歌ったように、桜は平安時代末期から鎌倉時代にかけて、聖なる花宴という印象が先行していました。
しかし、花見は戦国時代に戦国武士の演出により、楽しさ優先のエンターテイメントに変化しています。
南北朝時代の武将、佐々木道誉は、大原山で開いた花見で、巨大な4本の桜に巨大な花瓶をいけかけて生け花に見立てたり、高価な香を炊きあげたりし、派手派手しい演出を施しました。
この道誉の花見を受け継ぐ形で、戦国時代末期の豊臣秀吉は、花見を一回り華美なものに仕立てたと言われています。
秀吉は慶長三(1598)年、吉野で開いた醍醐の花見で、花見会の開催に際して畿内から700本の桜を移植させ、参加者の諸大名たちに参道各所に工夫を凝らした花見茶屋を設けさせたのです(注2)。
秀吉の権勢を誇示するために開かれた花宴は、盛大に行われ、供についていた諸士たちをも魅了させました。彼らは、秀吉の花宴の様子を国許に帰ってから、花宴を再現するようになり、全国で「花見は楽しいものだ」という認識が広まったと言われています。

江戸時代は、花見が庶民の間で大流行

江戸時代は、経済基盤の整備に伴い街が発展した三代将軍徳川家光の時代以降、生活の安定してきた江戸庶民が、季節の娯楽として花見を取り入れるようになりました(注2)。
江戸の花見の最盛期は、五代将軍綱吉の時代です。この頃は、上方の町人や武家階級を中心に、元禄文化が花開いたのですが、人形浄瑠璃や歌舞伎などの芸能に桜の描写が描かれようになり、文化の発展に呼応する形で花見が定着しました。
こうした花見の盛況を支えたと言われるのが、幕府や寺社による積極的な桜の植栽活動です。
植栽活動は幅広く、300内外の大名の持つ千以上の武家庭園だけでなく、幕府直轄の飛鳥山や御殿山、浅草奥山なども対象となりました(注3)。
こうした幕府の努力があり、江戸時代以降、急速に花見が庶民に定着し、同時に桜の名所が増えていったのです。

明治時代に花見を祝宴とする文化が根付く

激動の明治時代は、生命を祝福する聖なる花として愛でられた桜を軍国のイデオロギーの象徴とする動きが広がりました。
当時の軍政の最高責任者だった山県有朋と旧長州藩士は積極的にこのようなイメージ戦略を断行した結果、桜は殖産興業と富国強兵の象徴となってしまったのです。軍政が先行する桜のイメージは、第二次世界大戦が終わるまで取れませんでした。
一方で、庶民における花見は、猥雑で俗なものであった江戸時代から、祭りや儀礼などの非日常であるハレの日を象徴とするイベントに変貌を遂げたと言われています(注2)。
この変化は、ドイツ人の医学者エルヴィン•ベルツが書き残した「ベルツ日記」で、美しく着飾った娘たちが桜を見上げながらそぞろ歩きする様子が記載されていることから、読み取れるとされます。
以上により、桜は、愛でる心を変えながらも、日本人の生活に欠かせない風俗行事に定着したと言えるでしょう。

植物としての桜

最後に植物としての桜の特徴を説明します。

形態

桜は落葉性の樹木であり、形態的には、普通5枚の花弁と、一つの花の中に1本のめしべと多数のおしべを持つ両性花であるのが大きな特徴です(注2)。
両性花は、バラ科に分類される種の特徴とされています。
このほか、花弁の基部にある萼(がく)は、萼筒と5枚の萼裂片で構成されます。他方、果実の中に1つの堅い種子があり、葉は縁に細かな鋸葉を持つという構造となっています(注2)。

分類

桜は植物分類学で用いる種という単位で考えた場合、世界に100種類以上、日本に10種が分布しています。
分類については、日本では、サクラ亜科の桜の仲間をPrunus(ハナモモ)属として梅や桃などと同じ属にまとめるケースが大半とされます。
一方で、ロシアや中国など、桜の仲間の種数が多い国では、Prunus属を細分化し、ヤマザクラやエドヒガンといった桜類をCerasus(サクラ)属とし、スモモ類をPrunus属と厳密に区分する見解があるようです(注4)

分布

桜は北半球の温帯に広く分布しています。
複数の種木のうち、ヤマザクラは南東北から九州の暖温帯、オオヤマザクラは沿海州•朝鮮半島•北海道から九州の冷温帯など、種ごとに自生する分布域があるとされます。
また、気候に応じて適応している環境も異なり、カスミザクラのように乾燥地に強い種木がある一方、チョウジザクラのように渓流沿いに多い種木だと報告されています(注2)

代表的な桜

代表的な桜は、ヤマザクラやオオヤマザクラなどが有名です。
前者のヤマザクラは東北南部から九州に分布する種であり、関東や関西の雑木林で見られる最も身近な桜です。花は白色であり、開花時に赤褐色の葉を伸ばします。
後者のオオヤマザクラは、北海道などの寒冷地で、お花見をする上で代表とする桜です。花は大輪で紅色となっています。
このほか、花は白から淡紅色で開花後に葉を伸ばすエドヒガンは、天然記念物に指定される老大木まで育つのが特徴であり、東北から九州•淡路島に分布しています。

桜の文化は権力者の寵愛を受けて形成された

歴史的に見ると、桜はそれぞれの時代で、天皇家や幕府など、権力者からの寵愛を得ました。そうした力添えがあって、現在の桜の文化があると言っても過言ではありません。
一方で、桜の形態は、比類のない美しさを備えます。例え、権力者の寵愛を受ける歴史的背景がなくとも、四季を愛する日本人の心性とマッチし、多くの人から支持を獲得していることでしょう。

茶三代一では、日本人の心を惹きつけてやまない桜と有機栽培の煎茶をブレンドした桜煎茶を製造、販売しています。桜の香りと煎茶の味が口の中で絶妙に重なり合い、春の到来を連想させる豊かな香りとなっているため、花見シーズンにぜひご賞味いただけますと幸いです。

桜煎茶の販売

引用:

(注1)大森亮尚『知ってるようで知らない 日本人の謎20』PHP研究所(2013年)

(注2)伊藤滋『日本のたしなみ貼 桜』自由国民社(2015年)、pp19-33、36-37

(注3)池谷祐幸「桜の鑑賞と栽培の歴史ー野生種から栽培品種への道ー」『森林科学』70巻、日本森林学会(2014年)、pp3-7

(注4)勝木俊雄『生きもの出会い図鑑 日本の桜』学研教育出版(2014年)、pp47

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